聖書箇所ーマタイによる福音書15:21~31

◇主イエスが異邦人の地ティルスに行った時のこと。そこでもイエスの名前は知れ渡っていて、一人の母親が重い病に苦しむ娘を癒やしてくださいと懇願した。しかし主は「24:わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と異邦人に冷たい。

◇主イエスは博愛主義的に、求める者には平等に愛を与える方ではなく、愛する人を選んだ。愛したいと思う人を愛し、憐れもうと思う人を憐れんだ。真実な愛とは、求めれば自動的に機械的に与えられる愛ではない。

◇私たちも愛する時は、しっかり選別をしている。今わたしはこの人を、この人だけを愛そうと思って愛するのである。しかしそういう「えこひいき」をしない愛は、愛とはいえない。そしてそれが本当に命をかけるほどに、ある人に集中する愛であったとしたら、自分が愛される対象になっていなくても、それは人の心を打つのである。

◇「26:子供たち(イスラエル)のパンを取って小犬(異邦人)にやってはいけない」と言われた。主イエスの言葉を理解して、カナンの女は「27:主よ、ごもっともです」と応える。彼女は主イエスの愛の冷たさではなく、イエスの愛の深さ、愛の集中を感じとったのである。自分の命を儀牲にしてまで、一つの民族のために愛を集中的に注ごうとしているその姿に、愛の深さを感じて彼女は感動し、主イエスの言葉を受け入れたのである。

◇招詞のⅠコリント13章「愛の賛歌」は人間の愛ではなく、神の愛、キリストの愛を讃えている。「4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」。そしてその愛に動かされて、私たちに起こる変化を述べている。「7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。さらにここに、「愛はいじけない」と加えたい。

◇いじけの究極は、やられたらやりかえす「仕返し」だ。イスラエルとパレスチナ、ウクライナとロシアだけでなく、誰もがこの報復原理を本性に持っている。この本性を越える唯一の道が「十字架の愛」である。報復の反対に、他者の救いのために自分を捧げ尽くす愛。その愛の体質が「忍耐強い。情け深い。ねたまない。自慢せず、高ぶらない」ということだ。「十字架の愛」によっていじけない、報復しない世界を築いていきたい。

                        大村  栄