聖書箇所ー創世記28:10~32
◇ヤコブは双子の兄エサウをだまして長子の特権を奪い、兄の怒りを買って家を出て、母リベカの実家に逃亡する。テキストはその旅の途上での出来事。讃美歌320番「主よみもとにちかづかん」の背景である。
◇石を枕に眠る夜、「12:彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。徳育幼稚園の階段の壁に、この場面を描いた絵がある。
◇夢の中で神が言われる、「15:見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」。そしてわたしはあなたを「決して見捨てない」。
◇ヤコブは目が覚めて、「16:まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と告白する。今までは家の祭壇の中か、父や母のそばにしかいないと思っていた神が、後ろめたさを抱えて荒野をさすらう自分に近づき、共にいて下さる。
◇いずこにもおられる神の普遍性と全能性に、青年は「17:恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」」。兄との関係に破れ、孤独と孤独と挫折感の中にある今だからこそ、ヤコブは神が共にいて下さる方であることを知り得たのだ。横の水平の世界に破れたときに、「聖なるもの」に出会う垂直の世界があることに気づかされる。
◇本当に恐れるべき「聖なるもの」を知った人は、ほかの誰をも、何ものをも恐れない。交読した詩編27:1「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう」とある。「主はわが光 Dominus Iluminatio meo」はオックスフォード大学の標語。この光が青年たちを包むことを願う。
◇水平の世界に悩む私たちに、神と交わる垂直の恵みの世界が開かれている。ヤコブは「17:そうだ、ここは天の門だ」と言ったが、主イエスは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:9)。自分を通って救いの道を行けと招いて下さる。
◇「主よみもとにちかづかん」と歌うが、世の不条理に悩む私たちに、主イエス・キリストにおいて、神が、神の方から近づいて下さったのだ。