聖書箇所ーヨハネによる福音書11:1~16(新約188ページ)

◇「1:ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」。エルサレム近郊のベタニヤに、マルタとマリア、弟のラザロの3人が住んでいた。ラザロが重篤となり、「3:主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と聞いた主イエスは「4:この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と言われた。

◇ヨハネ9章のシロアムの池では、生まれつきの盲人について、その理由を問われた主イエスは、「3:神の業がこの人に現れるためである」と言われた。

◇その後ラザロは死んだが、主イエスは「15:わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」、それは「あなたがたが信じるようになるためである」。ラザロの死には目的があった。そこにキリストが関わることによって、人々が神を信じるようになるためだ。

◇主イエスが行ってみると、ラザロは墓に葬られて既に4日たっていた。マルタは言った「21:主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。少々恨みがましい言い方をしている。それに対して主イエスは、「23:あなたの兄弟は復活する」と言われた。

◇するとマルタは、「24:終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。キリスト以前の旧約聖書にも、礼拝の招詞に読まれたエゼキエル書のように復活を預言する言葉はあった。だが主の言われるのは、キリストご自身の復活に触れて、一人一人の身に、今ここで起こる出来事だ。

◇「25:わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。主イエスと共にある者は、肉体の死を越えた新しい命を生きる者とされる。この信仰によって私たちは、滅びとしての死ではなく、新しい命への出発としての死を体験するのだ。

◇「4:この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」。ラザロの死のような悲劇は、私たちを駄目にするためではない。人間が最終的にダメになる部分は、キリストが十字架で死んで担われた。しかもそれも復活で逆転された。そうやって「4:神の子がそれによって栄光を受ける」のだ。そのための素材として、またステージとして私たちの人生を用いて頂きたい。
                             大村 栄