聖書箇所 ヨハネによる福音書4:27~42

◇先週の「イエスとサマリアの女」の続き。サマリアの女が町へ走って行ったあと、弟子たちが食事を勧めたのに対して、「32:わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と、少し的外れな発言をされた。

◇「荒れ野の誘惑」の場面を連想する。そこで主は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書4:4)と言ってサタンを退けた。

◇つまり「34:わたしの食べ物とは」とは神の言葉であり、それによって生きること。そしてそのような人を起こすことである。「34:御心を行い、その業を成し遂げること」、それが「伝道」である。そして、そのために自分たちはここ「4:サマリヤを通らねばならなかった」のだと主は言われる。

◇伝道への使命感を感じたけれど、まだ種蒔きに着手したばかりだから、「35:刈り入れまでまだ四か月もある」と弟子たちは考えた。4ヶ月とは種蒔きから刈り入れまでに要する一般的な期間。サマリア伝道も刈り入れとなる収穫を得るには、まだ時間が掛かるという常識的な判断だ。

◇しかし主は、「35:目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われる。蒔いた途端に実るという意味ではない。「38:あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」。刈り入れの前提と思っている種蒔きは、私たちが労苦しなくても、既に神が用意して下さるのだ。

◇「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ福音書9:37-38)。「働き手」は種蒔きのためではなく、神の業の収穫のために必要なのだ。すでに「垂穂は色づき、とがまを待てり」(讃美歌504)。

◇サマリアの女に動かされた町の人々が主のもとに集まった。「41:多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた」。彼らは女に言う、「42:わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」。

◇私たちが媒介するからでなく、このような救い主との直接の出会いが、周囲の人々にたくさん起こっている。それを刈り入れていこう。  (大村 栄)