(ペンテコステ)
聖書箇所 エゼキエル書37:1~14
◇エゼキエル書は、捕囚の一人としてバビロンに連れ去られた預言者エゼキエルによって語られた預言。彼はある時幻を見た。「1:主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2:主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」。「枯れた骨」は生命の残骸である。私たちの周囲にも、たくさんの残骸が散らばっている。人生の残骸、青春の残骸、家族の残骸、希望の残骸、肉体の残骸、平和の残骸…。
◇神はエゼキエルに「3:人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問うが彼は、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」としか答えられない。神は預言者に預言を託す。「5:見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」。彼は命じられた通りに預言した。「7:わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。」
◇神が霊=息を吹き込むとは、神が私たちの上に屈んで人工呼吸をするイメージがある。神の人工呼吸は、「信仰呼吸」とも言える気がする。日々の生活の中で疲れはて、無力感に落ち込んだりする。そんな私たちが主の日に教会で聖霊の息吹を受ける「信仰呼吸」を与えられて復活するのだ。
◇私たちはエゼキエルがバビロンの谷で見たような白骨が散乱する世界を見ている。ウクライナ、パレスチナ、ミャンマー、スーダン…など。私たちはそれらの残骸を見ているが、信じているものはこれとは違う。これらの骨が集まって、お互いに組み合わされ、筋によって結びつき、肉をまとった人間となることを信じている。神は残骸を一掃するのでなく、命の霊を吹き込み、枯れた骨を再び生きるものとして下さる。
◇しかもそれはバラバラではない。「10:わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」集団となって神の指示に従う勢力となる。これがペンテコステの日に誕生した教会である。教会は今日も明日も、神の言葉を語り、「4:枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と語り続けるのだ。 大村 栄