聖書箇所 エフェソの信徒への手紙4:1~16

◇復活されたキリストは、40日間弟子たちと過ごされ、その後天に昇られた。「9:イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10:イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒言行録1:9~10)。

◇私たちも主イエスの帰って行かれた天を仰いで、希望を得ようとする時がある。ゴシック建築の教会(カテドラル)は、天に向かって高く尖塔がそびえている。あれは人々の目を天に向けるものだ。中野教会の十字架の塔も、この町に天を示すシンボルとして見上げて欲しい。

◇エフェソ書は4章で、キリストの昇天だけでなく、その前段階に注目させる。「9:(キリストは)「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」。もともと天で神のそば近くにおられた方が、「昇った」と言うからには、その前に一度、神のそばから「降りておられた」という事を忘れてはならない。

◇主イエスはまずクリスマスに地上に降りてきて、私たちの限りある生を生きられた。讃美歌121「馬槽のなかにうぶごえあげ、木工の家に人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ」。謙遜で従順な姿で、主は地上の生を全うされた。そして「10:この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです」。

◇キリストが降りてきたのは、一箇所に現れるため。そして昇って行かれたのは、あらゆる所に満ちるためだったと言えよう。地上の一箇所におられた主イエスが、昇天して見えなくなることによって、むしろあらゆる所にあまねく行き渡る、普遍的な存在となったのだ。

◇天に帰る主イエスと弟子たちの別れの場面で主は、「51:祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52:彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53:絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24章)。

◇今日は母の日だが、カルヴァンは言った、「神を父と仰ぐ者にとって、教会は母である」。私たちの「神殿の境内」である教会、「母なる教会」で神をほめたたえ、そこから送り出されるそれぞれの生活の場において、神から託された愛の業の実践を目指したい。

                         (大村 栄)