聖書箇所 ヨハネによる福音書5:1~9
◇四福音書すべてにある有名な「五千人に食べ物を与える」という記事。ガリラヤ湖を渡った主イエスと弟子たちを、「2:大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」。数々の奇跡を見た人々は、主に多くを期待していた。夕刻となって空腹を覚え始めたが、男だけで5千人もいたという群衆に食べさせるには、よほどの量のパンがないと足りないでしょうと弟子のフィリポが訴えた。
◇同僚のアンデレは、「9:ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。それらを聞いた主イエスは群衆を座らせ、少年の差し出したパンと魚を手に取り、「11:感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。すると余ったパン屑で「十二の籠がいっぱいになった」。
◇ほかにも自分の食糧を持っている者たちがいて、惜しまずに提供した少年に促されて、皆も差し出したのかも知れない。独占から分配へという経済の進歩が、この奇跡の原因だったのかも知れない。だがこの出来事のもっと大事な点は、主が「11:パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。すると皆は満ち足りたという点だ。
◇「感謝の祈り」は満ち足りた感謝ではない。思い煩いを捨てて、神に信頼することだ。フィリピ書4:6~7「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさいそうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。
◇主イエスはゲッセマネの園で、死を目前にして祈り、「求めているものを神に打ち明け」た。「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マタイ26:39)。恐怖を越えて、「何でもおできになる」神へのまったき信頼がある。その信頼の中で本心を神に打ち明けるならば、「あらゆる人知を超える神の平和」が祈る者を平安に導くのだ。
◇わずかな食物しかないという失望から、しかしそれは主が与えて下さったものであると「感謝」し、最善を願うのが「祈り」である。その祈りを捧げる時に、独占を超えた正しい分配が起こってくる。私たちは「祈りと分かち合いの共同体」を築いて行きたい。