聖書箇所 ヨハネによる福音書5:1~9a

◇「ベトザタの池」の周囲には、病人が大勢横たわっていた。212ページの挿入によると、「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、…水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。おそらく「間欠泉」という現象だろう。

◇水はいつ動くか予想できないので、病人たちは昼夜を問わず、常にここに待機する。いざ水が動く時、最初に池に飛び込むのは元気な人で、彼らは人を押しのけてでも水に入り、癒されてここを去って行く。しかし病の重い人は水に入るチャンス何度もを逃し、いつまでもそこで待たされる。そういう不公平や不条理はいつの世も、いずこにもある。

◇しかしキリストは不条理の中に身を置いて下さる。主は「5:38年も病気で苦しんでいる」男に近付き、「6:良くなりたいのか」と声を掛けた。当たり前のことを訊くものだが、彼のように絶望的な状況が日常化してくると、人は希望を失ってしまうことがある。

◇アウシュヴィッツの収容所で、死と隣り合わせでいる人々は、「もはや人間らしさを失い、劣等化し」、「文化的な冬眠」に陥ると精神医学者フランクルは言う(『夜と霧』)。ベチザタの池での主イエスの問いは、彼の意思を確認し、言わば彼を冬眠状態から覚めさせようとしている。

◇だが彼の答えは素直ではない。「7:主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」。自分のせいではない、誰も助けてくれないからだと人任せになって、甘えている、自立心がないとも言える。

◇主イエスは命ずる、「8:起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。9:すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした」。人に頼るのをやめて、主イエスの言葉に頼って足を踏み出した時に、彼は歩けるようになっている自分、自立した自分を発見する。

◇「」とは彼を長年縛り付けてきた重い現実だ。キリストによる救いとは、現実からの逃避ではない。自分を束縛し、悩ませてきた現実を放り出すのでなく、逆にそれを担って歩き出すこと、そしてそれが出来るようになること、それがキリストによって促される新しい出発なのである。 (大村 栄)