聖書箇所ーローマの信徒への手紙8:1~18


◇3月30日の総会で選ばれた今年度の標語聖句1コリント15:58「主に結ばれてしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」の「主に結ばれて」という言葉について考える中で、今日のテキストへと導かれた。「1:従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。「キリストに結ばれている者」は悔い改めの信仰がある人だ。

◇主イエスと共に十字架に付けられた二人の犯罪人の内の一人は悔い改めて、主イエスから「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた(ルカ23:43)。罪人が救いに近いのは、自分の罪を知って悔い改め、神の許しが与えられると知る機会があるからだ。

◇信仰とは、主イエスを通して罪ある人間が解放されたという、無罪放免の喜びの知らせを受け入れることである。人間に最期に下される死の宣告は、もはや私たちに下されることはない。なぜならそれは、すでにみ子イエス・キリストにおいて執行され、無効になったからだ。

◇すでに死への恐れはなくなっている。しかしまだ私たちの中に恐れと不信がある。八木重吉の詩「死/それよりも怖ろしいものがある/死に切れぬ不信だ これ以上の怖れがあろうか/死ぬるまでに/死をよろこび迎えるだけの信仰が出来ぬこと/これにました怖れがあろうか」

◇「11:イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」。この神の霊が内に宿っている人は「死をよろこび迎えるだけの信仰」を持つ人だ。そういう人のことを、「1:キリスト・イエスに結ばれててしっかり立」っている者と言うのだ。

◇もうひとつ八木重吉の詩。「きりすとわれにありとおもうはやすいが/われみずからきりすとにありと/ほのかにてもかんずるまでの/とおかりしみちよ/きりすとがわたしをだいてくれる/わたしのあしもとに/わたしが/ある」。自分自身が自分の足元に崩れ落ちるような挫折や不安にある私をキリストが、母が子を抱くように「だいてくれる」のだ。

◇そうやって「キリストに結ばれた者」とされていることを感謝しよう。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」。だから「主の業に常に励」むことが出来るのだ。

                    大村  栄