聖書箇所ーマタイ福音書21:1~11   <棕櫚の主日>

◇今日は「棕梠の主日」。主イエスがろばに乗ってエルサレムの町に入られるのを、人々は棕梠の葉を振って歓迎した。

◇それは旧約ゼカリヤ書の預言だと言う。その頃イスラエルの民は70年続いたバビロン捕囚から解放されて祖国に帰ってきた。しかしそこにあるのは荒れた国土と崩壊した都エルサレムだけだった。昔ソロモン王によって建てられた神殿は破壊され、廃虚となっていた。だが帰還した民は日常生活の立て直しで精一杯で、神殿の再建どころではない。

◇そこでゼカリヤは、神を忘れてバビロン捕囚の苦難を味わった過ちを再び繰り返さないためにも、神殿を再建しようと叱咤激励した。その時与えられたのがゼカリア書9章の託宣。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る」。キリストの入城は、このゼカリヤ書の預言の成就だとマタイは主張した。

◇この王は「5:柔和な方でろばに乗」る。柔和とは自分自身の貧しさを自覚し、神の意志で隣人に対して寛容な人々だ。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)。柔和さはキリストと交わることで学ばされていく。「28:疲れた者、重荷を負う者は、だれでわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29:わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:28­29)。

◇軛とは家畜のクビに着けて重い鋤などを弾かせる道具。それは十字架と言い換えても良い。主に倣って自分の十字架を負うことが求められるが、「わたしの軛(十字架)は負いやすく、わたしの荷は軽い」との言葉を信じるならば、十字架に従う歩みは決して悲壮な歩みではない。

◇バッハ作曲「マタイ受難曲」に「来たれ、甘い十字架」との曲がある。「来たれ、甘い十字架。わがイエスよ、それを我に与えたまえ。わが重荷耐えがたき時には、それを背負う力を与えたまえ」。十字架が甘い訳はない。それは時には耐えがたき重荷だ。しかし主イエスがそれを担う力を与えて下さり、それを甘い十字架に変えて下さる。

◇イエスの到来を喜び迎え、「ダビデの子にホサナ」と賛美して迎えたい。そしてご受難の出来事に感謝と献身の真を捧げる受難週でありたい。   大村 栄