聖書箇所ーイザヤ書6:1~10

◇「1:ウジヤ王が死んだ年のことである(前742年)。わたし(イザヤ)は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」。そこでは天使らが互いに呼び交わし、唱えていた。「3:聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」。彼はショックを受けて叫ぶ、「5:災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。…しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」。

神を見た者は死ぬと言われているからだ。神を見るとは同時に、神だけに見られている自分の罪を知ること。しかし罪を自覚した者には「赦し」が与えられる。「6:するとセラフィム(天使)のひとりが、わたしのところに飛んで来た。…7:彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」」。

◇これは清めのしぐさだ。口だけではなく、全身が清められる。相撲の力士たちが土俵で取り組みの前に水に口をつけるのも同じ。罪の赦しは、それだけで終わらない。「8:わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか…」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」」。神の赦しには派遣が伴う。モーセもエレミヤも散々躊躇して最後には渋々と従った。私たちも教会を通して主のご用に召されたとき、覚悟を決めて応えよう。主はそれを喜んで用いてくださる。

◇イザヤの派遣の際に不思議な言葉が語られる。「9:行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と」。これは警告というより判決だ。神よりも世の力に頼る者たちは、神の言葉を理解しない。悟らない。そして悔い改めず、いやされない。

◇しかしイザヤは、悔い改めない民に次の7章で、最後の望みとしてインマヌエル預言を語る。「14:見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」。悔い改めない民の唯一の救いは、神が送って下さる救世主のみ。そしてこの言葉は、後に大工ヨセフに語られ、インマヌエルという名は、「神は我々と共におられる」という意味だと告げられた(マタイ1:23)。

◇若きイザヤの召命を通して、私たちは礼拝において起こる神との出会いを知り、そこに起こる畏れと赦しと、神の派遣を知るのである。  大村 栄