聖書箇所ーマタイによる福音書5:17~26
◇「17:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。主イエスは旧約聖書の戒め(律法)を「完成するため」にきた。そして「18:天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と律法の正当性を主張する。それは実は当時、律法が軽んじられていたからなのだ。
◇たとえば「21:あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」と命じられている」。「十戒」の第6戒、殺人の禁止。命はそれを造られた神が主権を持って管理するものである。それを他人の命であろうと自分の命であろうと、勝手に処分するのは、神の主権を侵すことであり、人が神に取って代わろうとする反逆である。
◇ところが、ある者は「殺すな」を、殺しさえしなければ良いのだと解釈し、暴行や脅迫、ストーカーやいじめなども正当化する。それに対する主イエスのアンチテーゼ(反対理論)が、ここから5章の終わりまで繰り返される。
◇「殺すな」の次に、「22:しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。「殺すな」は「命の尊重」を命じるが、それは単なる生物学的な肉体の生命ではなく、もっと大切な人格的な尊重がなされなくてはならない。人をバカ呼ばわりしたり、「愚か者」とののしることは、人格の否定であり、戒めの本質に背くことなのだ。
◇律法を「廃止するためではなく、完成するため」に来たと言われた主イエスは言われた、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)と答えた。「自分が嫌なことは、ほかの人にしない」という消極的なルールよりも、キリストの言葉と行いに示される「積極的な愛」に倣う者でありたい。
◇愛のないところでは戒めが形式化し、やがて人を滅ぼすものとなる。アシジのフランチェスコの祈りのように、慰められるより慰めることを、理解されるより理解することを、愛されるのを待っているよりも、積極的に愛することを実践する者でありたい。「これこそ律法と預言者」、すなわち神の掟、愛の掟の基本なのである。