聖書箇所ーローマの信徒への手紙1:8~17

◇「ローマの信徒への手紙」は紀元56年頃、パウロが第3回伝道旅行の途中、コリントで書いた。「9:わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています」。「福音」は神がキリストを通して人類に与えられた救いを意味する。その深い意味を説き明かすのがローマ書を始め、パウロの書簡集の内容であると言えよう。

◇パウロはローマ在住のキリスト者たちと会うことを切望している。その理由は「11:あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」。それは願望ではなく、彼に託された責任だと言う。

◇「14:わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」。「ギリシア人」とはヘレニズムと呼ばれるギリシア的文化生活をする自由人。「未開の人」は奴隷や労働者階級。あらゆる階層の人々にその人々の救いとなる福音を告げることが、自分の「果たすべき責任」だと言う。

◇「16:わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。「福音」がすべての人にとうとい「救いをもたらす神の力」だと確信している。

◇その救いは「17:信仰を通して実現される」ものであり、旧約以来伝えられているのは、「正しい者は信仰によって生きる」ということだ。だが「正しい者」と言える人間はどれほどいるだろうか。パウロは3:10で詩編を引用して「正しい者(義人)はいない。一人もいない」と語る。

◇義人とは神との正しい関係に生きる人。その様な「正しい者はいない」と言われるこの世界だが、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ローマ3:21-22)。これがパウロの訴えたい「福音」の本質なのだ。

◇「栄えの主イェスの十字架を仰げば、世の富ほまれは塵にぞひとしき。十字架のほかには誇りはあらざれ、この世のものみな消えなば消え去れ」(讃美歌297)。信仰者の生涯はこう歌い続けるものでありたい。   (大村 栄)