聖書箇所ーマタイ福音書4:18~25

◇最初の弟子を招く場面。「18:イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった」。彼らに向けられた主イエスの眼差がある。「ああ主のひとみ、まなざしよ」。(讃美歌243)

◇その眼差しは、彼らのごく日常的な活動に注がれ、彼らはその日常のただ中で主に見出され、呼びかけられた。私たちも日常生活のただ中で主に呼びかけられることがある。主は私をここで、このままで用いようとしておられる。そこに私たちの<命の目標>がある。それを発見して、実行を助け促すのが、主イエスの眼差しである。

◇語られた招きの言葉は、「19:わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。湖=海は悪魔的なものが住む混乱と恐怖、欲望と罪の世界。そこに生きる人間を、本来の人間の原点に立ち返らせ、自由へと解放すること。それが「人間をとる漁師」の役目だ。

◇後半は「おびただしい病人を癒やす」場面。「いやし」は単なる病気の治療ではない。「23:いろいろな病気や苦しみに悩む」者や「24:あらゆる病人」の重荷を共に負い、自分の<命の目標>を生きる者に変える業だ。

◇なぜ彼ら四人が選ばれたかは分からない。自分がその召しに相応しいかどうかを検討するのは無意味だ。なぜなら私たちを造られた神は、私たち以上に私たちをご存じで、最もふさわしい形で用いられる方だから。そのために必要なものも必ず用意して下さる。

◇むしろ素直に従うことが肝要だ。「20:二人はすぐに網を捨てて従った」。「22:この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」。主の召しに応えて、不要なものを捨てて従おう。人生は主に従う旅だ。

◇「旅をするために多少の蓄え、物が必要ですが、決してそれ自体が目的ではありません。見えないものをしっかりと見据えて、まっすぐに目的に向かって歩きたいものです。要らないものは少しずつ捨てて、生活をシンプルにしていきましょうす」。(バレンタイン・デ・スーザ神父)

◇「恐れるな、あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43:1)と私を呼び、招く神の声に応えたい。     (大村 栄)