聖書箇所ーマタイによる福音書4:1~11
◇主イエスは荒れ野でサタンの誘惑に遇った。空腹に駆られた時、サタンが、「3:神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」とそそのかす。最初の誘惑は食欲の誘惑だった。
◇「4:人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。主イエスは食欲の誘惑に対し、神への絶対信仰によって勝利した。パンが必要なら神が下さる。あらゆる領域において人は神の意志に生かされており、自分はそれに信頼すると宣言されたのだ。
◇第二の誘惑は安全への誘惑。悪魔がイエスを高い所に立たせて、「6:神の子なら、飛び降りたらどうだ。「…天使たちは手であなたを支える」と書いてある」」。ここでは、サタンも詩編91:11の引用を使ってくる。
◇これには対して主は、「7:「あなたの神である主を試してはならない」と神を試みることを問題としている。これも申命記6:16の引用だ。イスラエルの民が水がなくて苦しんだ時に神を疑い、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(出17:7)確かめてみようと試したのだ。
◇おとめマリアが常識ではあり得ないことを信じて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と自分を差し出したように、安全・安定への誘惑を超えて、神への信頼を貫ける者でありたい。
◇さらに悪魔はイエスに高い山から世の繁栄ぶりを見せて、「9:もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。第三は繁栄や権力への誘惑よりも、サタンにひれ伏すという偶像礼拝の誘惑だった。
◇私たちは様々な試練に苦悩し、「本当に神はおられるのか」、「この神が本当に本当の神なのか」と疑う。そのこと自体が、「最大の誘惑」である。信者が神を疑うのはふた通りあって、一つは神に見放されたのだろうかと疑うこと。もう一つはどうせ神は私を罰したりしないと甘く見ること。
◇そういう人間の弱さを主は知っていて下さる。「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ書4:15)。私たちの弱さに共感して下さるだけでなく、「大祭司」としてそれを神に取りなして下さる。
◇讃美歌142の5節「ああ、主の恵みに、むくゆるすべなし、ただ身とたまとを ささげてぬかずく」。 大村 栄