聖書箇所ーマタイによる福音書14:22~33 <卒園記念礼拝>
◇イエス様の行くところには、いつも大勢の人が付いてきた。奇跡を行うイエスを救世主と信じて追いすがった。ある時主は「22:弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」、彼らを群衆から遠ざけるためだ。そして主イエスご自身も「23:祈るためにひとり山にお登りになった」。
◇弟子たちの舟が、陸から約1キロほど離れた所で、「逆風のために波に悩まされていた」。おそらくここから中野駅くらいか。イエスさまに助けを叫び求めるには遠すぎた。諦めるしかないと思った。
◇ところが「25:夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」。弟子たちは主イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「26:恐怖のあまり叫び声をあげた」。しかし主イエスは近づいて、「27:安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
◇どうせ無理だという弟子たちの諦めを超えて、イエス様は近づいて下さる。諦めなくていいんだ。弟子たちが「幽霊だ」と叫ぶほどの予想外の出来事だった。「22:弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」たのは、実はこの嵐の体験を通して、どんな困難の時に悩む時も、主は常に「共にいます主」であることを彼らに知らせるためだった。
◇マタイ福音書は冒頭1章の降誕の記事で、み使いがヨセフとマリアに告げた「1:23 インマヌエル、神は我々と共におられる」。そして最後は復活して天に帰る主の宣言、「28:20 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」で終わる。「共にいます主」はマタイ福音書の一貫したテーマであると同時に、キリスト教信仰のテーマなのである。
◇湖上を歩く主に、ペトロは私も「28:水の上を歩いてそちらに行かせてください」と願い、主は「29:来なさい」と招かれる。ペトロは舟から出て水の上を歩き始めた。「30:しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ」。信じて歩き出した時は水の上も歩けたのに、現実に目が向いて疑った途端、水に沈んだ。
◇しかし「31:イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた」。主は疑いの荒波を乗り越えて私たちに近づき、共にいて下さる。卒園する子どもたちと、いつまでも一緒に。 大村 栄