聖書箇所

ヨハネによる福音書1:29~34

◇ヨルダン川で群衆に罪のゆるしを得させるバプテスマを実行していたヨハネの所へ、イエスも洗礼を受けようと近づいてきた。その主イエスを指して、ヨハネは 「29:見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と叫ぶ。

「小羊」といえばユダヤ人は、出エジプトの際にほふってその血を自分たちの家に塗りなさいと神に言われた身代わりの小羊を思い出した。 「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」(出12:13)。そしてこれが主イエスの予兆だったとヨハネは言う。

◇イスラエル人がかつて抑圧にあえぐエジプトから脱出したように、私たちも罪と喘ぎの中からの出エジプトを体験しなくてはならない。だが自力では脱出できない。イスラエルが小羊の血を必要としたように、私たちには 「神の小羊」なる主イエスの血が流さなくてはならなかった。ヨハネはこのイエスを指し示すことを生涯の使命とした。

◇ヨハネ福音書はその終わり近くにも、似た言葉で主イエスを指している。主イエスがローマ総督ポンテオ・ピラトの判決を受ける場面で、官邸に押し寄せた群衆に、ピラトはイエスを釈放してほしいかと尋ねると、「その男ではない。強盗のバラバを」と彼らは叫ぶ。ではあの男を引き出せと命じると、 「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ」(19:5-6)。

◇惨めな姿を見せれば、無慈悲な祭司長たちも群衆も、イエスに同情するだろうとピラトは考えたが失敗に終わった。その時のピラトのひと言が印象的だ。「見よ、この男だ」(ラテン語で「エッケ・ホモ」)。ホモはごく一般的な「人」を指す言葉。こんな普通の男をお前たちは恐れているのかと、ピラトは皮肉を込めて言ったのだ。

◇讃美歌121「馬槽のなかに」は元東中野教会牧師由木康先生の作詞。その3節に「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれたる、この人を見よ、この人こそ、人となりたる活ける神なれ」。私たちの罪からの解放のために流された「この人」の血を、新年の聖餐式で味わい、常にかたわらにいて下さる「この人」を見つめつつ、この年を歩もう。(大村栄)