聖書箇所ーヨハネによる福音書8:1~11

◇町の男たちが姦通の現場で捕らえた女を連れて来て、主イエスに言う、「5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」。律法通り「打ち殺せ」と言ったら民衆は失望する。「赦せ」と言ったら、反逆罪で訴えられる。これは明らかに「6:イエスを試して、訴える口実を得るため」の問いだ。何とも答えずに、「6:イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」。

◇しかし彼らがしつこく問い続けるので、身を起こして言われた。「7:あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。さっきまで「7:しつこく問い続け」ていた男たちが急に沈黙し、「9:年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っ」ていった。

◇先週NHKテレビのドキュメンタリー番組で、海軍の特攻作戦に携わった元参謀たちが、戦後しばらくして集まり、あの特攻は誰の責任だったのかと論じ合うが、皆黙ってしまう。その番組のタイトルが「やましき沈黙」。罪の女を糾弾した男たちの沈黙、あれも「やましき沈黙」だったのだ。

◇この時、主イエスが地面に書いたのは、男たちを断罪する罪状だったという説がある。だとしたら、それを見た男たちは、罪責感に悩まされ、「やましき沈黙」のままうつむいて去っていったのだろう。

◇だが罪状書きは土の上に書かれたものだ。パットブーンの「砂に書いたラブレター」という古い歌があったが、砂に書いた文字が波に消えていくのと同様、土に書いた罪状も風に飛ばされて消えていく。主イエスが男たちの罪を指摘したのは裁くためではない。罪を自覚させた上でそれが赦され、消えていくことを告げるためだった。愛は裁くことでなく赦すこと、赦す(forgive)だけでなく、忘れる(forget)ことなのだ。

◇だが罰せられないことだけが、本当の赦しとは言えない。神の愛は私たちの罪を無かったことにするのではない。神は私たちの罪を砂の上でなく、決して消えないところに書いて覚えておられる。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。・・・たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ書49:16)。その手の痛みが十字架の愛なのだ。
                             大村 栄