聖書箇所ーマタイによる福音書11:2~19

◇おそらく誰よりもメシアの到来を待ち望んでいたであろうバプテスマのヨハネは、この方がそうかも知れないと言われていたイエスが、一向にローマの権力と戦おうとはしないので疑いを抱き、獄中から問い合わせた。「3:来るべき方は、あなたでしょうか、それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。

◇主イエスはこの問いに直接答えないで使者に、「4:行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言う。それは「5:目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、…」という事実だ。人々がキリストと出会い、新しい人生を歩み出しているという事実が、多くの人に起こっていた。信仰とは周囲の事実の中に、そして自分の中に起こった変化に、神の御業を見出すことにほかならない。

◇ヨハネは伝え聞く事実の中に、イエスがメシアであるとの確信が持てなかったので、「3:来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた。するとイエスに「6:わたしにつまずかない人は幸いである」と言われた。ヨハネは事実を見ても「来るべき方」を確信できず、つまずいたのだ。

◇天国で最も評価される者は、疑う者ではなく、素直に信じて受け入れる人だ。受胎告知を受けたマリアは、「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ1:34)と疑い、拒絶したが、天使の言葉に動かされて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)と受け入れた。そういう素直な信仰が、未来への可能性を開く鍵なのである。

◇主は疑い、拒絶する時代を嘆いて言われた。「16:今の時代を何に比べようか。…17:「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった」と言うのに似ている」。それは童謡「はないちもんめ」に似ている。何を言われても難癖を付けて断るのだ。ああ言えばこう言う、という天の邪鬼的な態度だ。

◇「3:来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネは疑ってそう問うたが、「来るべき方」は神の子イエス・キリストにほかならない。ほかに待つものはない。謙虚に素直にそう受け入れ、それによって未来と天国を確信して生きる希望の道を、ご一緒に歩みたい。
                         大村 栄