聖書箇所-マタイによる福音書13:53~58
◇先週は「未来への緊張と期待」の説教題で、中野教会と徳育幼稚園の厳しい状況を語った。私たちは今悲壮な覚悟でクリスマスを迎えようとしている。しかし「主の再び来りたまふを待ち望む」という、再臨の起死回生の希望を持つ「アドヴェントの信仰」に堅く立つ者でありたい。
◇日本のキリスト教界を代表する内村鑑三も、晩年は熱心な再臨待望論者だった。1912(大正元年)に、愛娘ルツ子が17歳で亡くなった悲しみが彼の信仰を揺さぶった。さらに1914年に第一次世界大戦が勃発。米国に留学経験のある彼は、アメリカの調停に期待したが、残念ながらアメリカも1917年に第一次大戦に参戦。内村の失望は大きかった。
◇彼はついに人間の力によらず、キリストの再臨によって実現する平和にしか希望はないという、「深い絶望から来る希望」に到達した。
◇主イエスは久しぶりに故郷のナザレに帰り、会堂で語った。その姿に人々は驚いた。「55:この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ…。56:姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。
◇彼らは自分たちの生活感の中でしかイエスを見れなかった。だから主は「58:人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」。先入観でものを見るならば、神の御業に触れることが出来ない。
◇私たちも、自分のわずかな知識や体験だけで神を判断しようとする。そしてそれ以上に神を知る努力をしない。私はキリストの良き理解者だ。しかし私の理解を超える事柄については関心が持てない。そういう自己中心の、閉鎖的な信仰が私たちにあるのではないだろうか。
◇「58:不信仰」と言っても信じないのではない。自分の信じられる事だけ信じる、いやそれしか信じない。主イエスがもしここでも奇跡を行えば、人々は信じたかも知れない。しかし奇跡を見て信じるのは信仰ではない。
◇空虚になってゆだねることの出来る人を、空洞のパイプだとすれば、自分の考えに凝り固まった人は詰まったパイプだ。再び来られるキリストをお迎えするに当たり、ナザレの人々のように自分の知識や判断で詰まったパイプではなく、空洞のパイプとなって、素直にお迎えしたい。
大村 栄