聖書箇所ー出エジプト記33:12~23(旧約149ページ)

◇エジプトを脱出して徒歩で進むシナイ半島は灼熱地獄だった。しかもその人数は、「壮年男子だけでおよそ60万人」(出12:37)だ。モーセも不安に陥ったらしく、自分を指導者に選んだ神に対して、「13:もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください」と訴えた。これに対して神は、「14:わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」とご自分の意志を伝える。

◇だがモーセはさらに、自分だけでなく、「16:わたしとあなたの民に御好意を示して」下さいと願った。主はこれに応じて、「17:あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである」。個人の選びが全体の祝福に反映していく。一人の信仰はその人の家に窓を開けて、全体に風を吹き通させる。

◇モーセの要求は続く。「18:どうか、あなたの栄光をお示しください」。彼は神の姿を見たいと願った。だが神は「20:あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできない」。神はモーセを死なせずに生きて用いるため、姿は見せない。その代わりに「19:わたしは、あなたの前に主という名を宣言する」。

◇かつてモーセが神に召された時に神の名を問うた。それに対する答えが「わたしはある。わたしはあるという者」(3:14)。固定した存在を示す「ある」(be)より、動きのある「なる」(become)に近い。神は存在するだけではなく、民のために自ら神であろうと行動される。

◇さらに主は言われた。「21:見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい」。神を見たいと願うモーセに神が与えた場所は「」、それは「教会」である。ただし教会に立っていても「23:あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」。

◇神の「後ろを見る」とは、通り過ぎた神の足跡を見るということだ。私たちは神を見ることはできなくても、神の偉大な御業を、教会の歴史の中に見ることができる。中野教会の100年の歴史においても、神は多くの人々を起こし、信仰によって生かし用いてこられた。敬老の祝福を受ける方々の歩みにも、その尊い信仰の足跡を「神の後ろ」として見る思いである。
                  大村 栄