聖書箇所ーエフェソの信徒への手紙5:6~20

◇「光の子として生きる」(小見出し)にはどうしたらよいか。信仰者も始めから光だったわけではない。「8:あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。キリストに出会い、キリストに結ばれた者となってこそ、「」となる。そして周囲の闇を照らす「光の子」として用いられる。「11:暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」。

◇「コンプライアンス」は「法令遵守」と訳される。常識的なルールやマナーが、残念ながら隠れたところでは、しばしば無視・軽視されている。老舗の料亭で客が箸をつけなかった天ぷらを次の客に出したり、有名な和菓子店が賞味期限を偽装して販売したりするケースが相次いだ。

◇誰も見てなければ問題ないと考えてしまう。そういう人間の心に、いやたとえ誰も見ていなくても、決めたことは守らなければいけない、という強い倫理感を訴えるのが「コンプライアンス」である。

◇その「コンプライアンス」を根底で支えるのは、たとえ誰も見ていなくても、神さまが見ている。そして「13:すべてのものは光にさらされて、明らかにされます」という信仰だ。その信仰が教会とキリスト教にある。キリスト者が「光の子」として「クリスチャン・プレゼンス」(キリスト者の存在感)を発揮し、社会の底支えとなっていきたい。

◇私の父大村善永牧師は18歳で失明。結婚して子どもたちが生まれた。盲目なのに家族の状態を感じ取っていて、見えていないのに、見られているという不思議さがあった。それは「見られている」という緊張であると同時に、「見守られている」という安堵に似たものでもあった。

◇「14:明らかにされるものはみな、光となるのです」。私たちは闇を蹴散らすような勇ましいものではないが、復活して陰府から帰られたキリストの光を反射させ、その光に包まれる中で、闇は光に変えられていく。

◇「14:眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」。これは洗礼式で読まれる式文だ。キリストの復活の光に照らされて、少しずつでも世の闇を光に変えていける「光の子」としてのキリスト者でありたい。
                            大村 栄