聖書箇所 ヨハネによる福音書6:22~37
◇6章前半で「五千人の給食」の奇跡を行った主イエスを、群衆はガリラヤ湖の対岸まで追い求めた。食糧難の中で群衆はイエスを王にすることによって、経済的・政治的な安定を得たいと願った。
◇しかし主は、「26:はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と批判して、「27:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と勧める。
◇「34:主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」、そのためには何をしたらよいですか、とギブ・アンド・テイクのように交換条件を知りたがる群衆に対して、「35:わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と宣言された。
◇このあたりからイエスの言葉に戸惑いを感じ始め、やがて「41:ユダヤ人たちは、…つぶやき始め」た。群衆、彼らと呼ばれていた人々が、ここから「ユダヤ人たち」と呼ばれる。ヨハネ福音書で、それはイエスを十字架に付けた人々のことだ。自分を変えようとしないで、キリストを評価し判断しようとする人は、主を否定し十字架に付ける者となる。
◇イエスは「27:いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」だ。これを素直に食べて飲み込もうではないか。効能書きだけ読んでもその薬を飲まないならば、何も変化しない。
◇キリストの福音は、あの群衆が求めたような現世利益を与えるものではない。かと言って精神世界への逃避を促すものでもない。主イエスは「27:いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」である。ならば素直にこれを食べて飲み込もうではないか。
◇そのことを象徴するのが「聖餐」である。マザー・テレサは「聖餐(聖体)を拝領することによって、自分は生きています」と言った。キリストというパンを食べることによって、自分が生きるだけでなく、カルカッタの路上に横たわる人々や、あらゆる人々と共に生きる者とされる。すべての人と命を分け合うという、世界を変える行いがここから始まる。