◇バプテスマのヨハネとイエス・キリストとが同時に伝道をしていた頃、両者の弟子たちの間で、「25:清めのことで論争が起こった」。律法によれば世の中は汚れに満ちており、それを「清め」なければ神に祝されない。
◇「カナでの婚礼」の席でぶどう酒がなくなってしまった時、主イエスは水がめに溜めてある大量の水をぶどう酒に変えた。その水は本来、手や身体を洗い、汚れをおとす「清め」に用いるものだった。(ヨハネ2:1-)
◇汚れをはらう「清め」の水を、喜びのぶどう酒に変えた主イエスには、厳しさよりも優しさがあり、裁きよりも愛がある。しかしヨハネは厳格に「神の怒りを免れる」(マタイ3:7)ために、「悔い改めの洗礼」(マルコ1:4)を受けよと語った。群衆は当然厳しいヨハネよりも、愛を語るイエスの方に多く集まった。
◇それを妬んで批判する弟子たちにヨハネは、「27:天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と言う。自分の役割は自分で決めるものではなく、神から与えられる使命なのだ。そしてヨハネは自分の「役割」について述べる。「28:自分はメシア(救い主)ではない」、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」と言う。
◇ヨハネが神から与えられた役割は、「あの方(キリスト)」のために道を整えること。それは神の救いを求める者たちに、救いの前提である罪の悔い改めを促すことだった。水で洗ったくらいでは清くなれない自分であることを知り、神の赦しを願い求めよ、とヨハネは人々に語った。
◇だがその赦しを宣言するのは彼の役割ではない。それが出来るのは、神の子キリストのみである。どんなに洗っても清くなれない私たちのために、主はその罪を自ら背負って身代わりに十字架で死んで下さった。
◇結婚のたとえで、「29:花嫁」は救いを待つ民。花嫁が待ちわびている「花婿」はキリスト。「花婿の介添え人」は洗礼者ヨハネ。介添人は花婿の到来を告げて「喜びで満たされている」。しかし役割は終わったから、静かに退場していく。「30:あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。
◇ヨハネのような存在によって、私たちは見上げるべき方向を示された。各自に渡される「人生の羅針盤」によって、「この人を見よ」(讃美歌121)と、キリストへの正しい道を示され、目指して生きる生涯でありたい。