聖書箇所 ヨハネ福音書3:1~15
◇「1:ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」。宗教的・政治的有力者だったであろう彼は、ある夜、人目を忍んで夜に主イエスを訪ねた。主は彼の心にある問いを見抜いて答えた。「3:人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは、どうすれば神の国に入ることが出来るかを知りたかったのだろう。それは人生の本質に関わることで、究極の目標となる。
◇「新たに生まれ」よ言われて、ニコデモは「4:年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と問い返した。それはあり得ないとニコデモも分かっている。それは人生をやり直せという意味だと考えただろう。しかし人生を重ねてきた者にとって、今さらやり直しは出来ない。
◇すると主は言われた。「5:はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。「3:新たに生まれる」とは2度目の出産ではなく、「水と霊とによって生まれ」ることなのだ。
◇「水」とは洗礼の水のこと。洗礼を受けた者は新たに生まれた者である。しかし洗礼を受けただけでは信仰から離れてしまう者が少なくない。だからそこから「霊によって生まれる」という体験へと導かれなければならない。水のバプテスマは生涯に一回だけだが、「聖霊のバプテスマ」は信仰生活において、礼拝や祈りのごとに繰り返し起こりうる。
◇聖霊は土の塵で出来た最初の人間アダムの鼻に吹き込まれた命の息だった。エゼキエルは、枯れた骨のようになっている人間に聖霊が吹き込まれて生き返らせると預言した。ペンテコステにはその聖霊によって使徒たちが福音を語り出し、聞いて信じた者たちの群れが教会となった。
◇聖霊は息であると共に風である。「8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。聖霊も目に見えないが、それによって動かされる人間の生き生きとした動きは見える。これが「水と霊とによって生まれ」るという「新たに生まれる」体験であり、それによってニコデモの望む「神の国に入る」という目標に近づいて行くのだ。
大村 栄