聖書箇所 ヨハネ福音書15:18~25
◇「世」はギリシア語で「コスモス」。秩序をもった世界を意味する。対立語の「カオス」は「混沌」。ヨハネ福音書は「世」を未完成で、人間の秩序にまさる、神の働きかけが必要不可欠であると描く。
1:9「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。
1:29「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。
3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。
◇まことの光を必要とする世、罪を取り除かれねばならない世、それでも神が愛してやまない世。神はこの世の救いのために独り子を送り込まれた。だが世はこれを拒絶する。その結果、世はカオスとなり、主イエスは十字架への道を歩む。
◇十字架の前夜、弟子たちとの最期の晩餐を囲み、訣別説教を語られた。「18:世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」。イエスを憎む世は、弟子たちをも憎む。弟子=キリスト者は世の秩序や調和(コスモス)とは違う、神の秩序の中に世界を見る。だからクリスチャンは世から浮いた存在となる。
◇神は天地創造で「お造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)。神が「良い」とされる世界の回復を求め、「御国を来たらせたまえ」と祈るのがクリスチャンである。
◇しかしそれは世の習いと反することであり、世の拒絶にあう。「19:あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
◇世に属する以上に、キリストに属するのがクリスチャンだ。15章前半でぶどうの枝のように、「わたしにつながっていなさい」と言われる私たちは、「世のために生きたキリスト」につながり、「世のための教会」として神の愛で世を豊かにすることが期待される。
◇しかし、送り出された先の「世」では、様々な試練を体験する。世の拒絶に苦しむであろう弟子たちに、主イエスはひとつの約束を与えた。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」。これがペンテコステに実現する「聖霊を与える約束」(14:15-18)である。
(大村 栄)