聖書箇所 ヨハネ福音書21:15~25

◇復活された主イエスはペトロに問うた。「15:ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。唐突な問いにペトロは驚いたろうが、これは彼にとって必要な問いであることは、ペトロ自身が自覚していた。

◇彼は主イエスが連行された大祭司の官邸までそっと付いていったが、その中庭で人々に「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」(18:25)と言われると3度も打ち消して、自分の身を守るためにイエスを裏切った。

◇マタイ26章では鶏が鳴いた時に、ペトロは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マタイ26:34)と言われた言葉を思い出し、「外に出て、激しく泣いた」(26:75)とある。

◇あの時の主を裏切った負い目からペトロは、ここでイエスに「わたしを愛しているか」と訊かれて、「はい、愛しています」と胸を張って言えない。

◇この問いが3度発せられたのは、ペトロがあの夜3度もイエスを知らないと言ったためだ。ペトロもそれを思い出して3度目には「悲しくなった」。しかしよく読むと、その言葉遣いにイエスの深い配慮を知る。

◇「わたしを愛しているか」というイエスの「愛」には、「アガペー」というギリシア語が使われている。これは旧約ヘブル語由来の「選びの愛」と「契約の愛」を合わせた、絶対的で不変な「神の愛」を表す言葉だ。

◇だがペトロの答え「15:わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」には、「アガペー」でなく「フィリア」が使われる。それは人間同士の「兄弟愛」など、愛に理由を必要とするような相対的な愛である。

◇「アガペーするか」の問いに、十字架へ歩む主を、変わらずに愛し続けることができなかったペトロは、「アガペーします」とは言えず、「フィリアしかできません」と答えるしかなかった。

◇ところが主イエスも3度目には、「アガペーするか」ではなく、「フィリアするか」に言い換えている。絶対的な愛を全うできないペトロの人間的限界を受け入れ、赦して下さったのだ。そしてそういう弱いペトロに、主は「17:わたしの羊を飼いなさい」と言われる。

◇これは教会を託す言葉だ。良い羊飼いとなって群れを養いなさい。それがペトロが主イエスの深い愛に応える方法だったのだ。 (大村 栄)