聖書箇所 ヨハネ福音書21:1~14

◇イエスを十字架に失った弟子たちは、ガリラヤ湖の漁師に戻っていた。振り出しに戻るという失望か。暗い気持ちで一晩中漁をしても何も取れない。夜が明けて、復活の主が岸に立っておられたが、誰もそれと気づかない。「5:子たちよ、何か食べるものはあるか」。「ありません」。

◇すると「6:舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」。ガリラヤ湖の漁にかけては、彼らの方が経験豊富だが、その人物の言葉に従って打ってみると、網が重くてあげられないほどの大漁だった。

◇一人の弟子が「7:主だ」と気づくとペトロは、「7:裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。裸の恥ずかしさと同時に、一刻も早く主にお会いしたくて泳ぎ出した。ほかの弟子たちは舟で帰ってきた。

◇岸に上がるとそこに火がおこしてあり、パンと魚の朝食が用意されていた。食事をする前に、舟にいっぱいの魚を数えてみると153匹もあった。だが網は破れていない。そして主は弟子たちを招かれる、「12:さあ、来て、朝の食事をしなさい」。

◇彼らは恐る恐る、だが懐かしいイエス様の前に腰をおろし、朝日の中で嬉しい食卓を囲んだ。そしてあのエマオの宿での食卓のように、主イエスはパンを取って弟子たちに与え、魚も同じように分配された。最後の晩餐での仕草でもある。それは聖餐式の一つの起源だ。

◇さびしい食事を重ねている人もいるかも知れないが、私たちは教会において「喜びの食卓」に着くことが出来る。教会は礼拝を中心とした共同体であり、礼拝は聖餐を中心としている。だから私たちは礼拝において、キリストに養われる豊かな食卓に共に着くことが出来るのだ。

◇食事を共に分かち合って食べるような、人と人とが共に生きる交わりと喜びをもたらすのは、神を仰ぐ時に与えられる。コロナが収まりつつあり、聖餐式はほぼ元に戻ったが、愛餐会の回復も出来たらいい。

◇復活のイエスは「12:さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、私たちを喜びの食卓へと招き、養ってくださるが、同時に「6:網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とそこから主のご用に送り出し、積極的に私たちを生かし用いる主でもある。 (大村 栄)

韓国の民主化闘争時代の劇作家 金芝河(キム・ジハ、1941~2022)の詩「飯が天です」

「飯が天です/天を独りでは支えられぬように/飯は互いに分かち合って食べるもの/飯が天です/天の星をともに見るように/飯はみんなで一緒に食べるもの/飯が天です/飯が口に入るとき/天を体に迎えます/飯が天です/ああ 飯は/みんながたがいに分かち食べるもの」。