聖書箇所 ヨハネによる福音書20:1~18

◇土曜は安息日なので、女たちは夜が明けるのを待って、日曜の朝早くに墓を訪れた。行ってみると、墓の入り口の大きな石が転がされていた。ペトロも駆けつけ、中に入ってみると、確かに主イエスの遺体が姿を消していた。木曜の深夜に主を知らないと言ってしまったペトロには、痛烈な追い打ちをかける出来事だっただろう。うなだれて帰って行った。

◇マリアは一人残って泣いていた。改めて墓の中を見ると、「12:白い衣を着た二人の天使が見えた」。天使たちは「13:婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねる。彼女は「13:わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えた。

◇「14:後ろを振り向くと」そこに主イエスが立っているのだが、悲しみの余り気がつかず、「15:婦人よ、なぜ泣いているのか」と訊かれても、相手を園丁だと思って「15:あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこにおいたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言う。

◇遺体を引き取り、ちゃんと葬って、その墓を守りながら、残りの一生を過ごそうと考えていた。それが「13:わたしの主」との愛の絆を続けるせめての方法だと思っている。墓穴は人間を過去に引き戻し、未来への希望を失わせる闇の世界である。

◇しかしこの時、マリアの向いている方向からではなく、180度後ろから「16:マリア」と呼び掛ける声があった。マリアは暗い墓穴とは逆の光の世界から、死の世界とは逆の命の世界から呼び掛けられて、「16:ラボニ(先生)」と応えた。その時マリアは闇の世界から解放された。

◇キリストの復活はこのような180度の転回をもたらす。死から命へ、闇から光へ、絶望から希望ヘ、過去から未来へと、私たちが本来の場所へ「引き戻される」こと、それが復活のもたらす立ち直りである。

◇そしてその究極は、私が本来の立場を取り戻すこと。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」(イザヤ書43:1)。マリアは「わたしの主」と言っていたが、むしろ私が神のものであることを知る平安こそが、復活による「愛と信頼の回復」であり、「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰め」(ハイデルベルグ信仰問答)となるのだ。 (大村 栄)