聖書箇所 ヨハネ福音書9:1~12

◇主イエスは「1:生まれつき目の見えない人」と出会った。「生まれつき」ということは中途失明と違って、ものを見た経験がないのだ。そういう原因不明の災いは、何らかの「罪」に対する「罰」であると考えられた。卑近な言い方では、「ばちが当たった」ということか。

◇弟子たちも「因果応報」的な考え方をしており、「2:ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問う。災いの原因は罪だという前提で、それは一体誰が犯した罪なのですかと問うている。

◇「本人ですか」。「生まれつき」の障害だから、それは生まれる前の「前世」で本人が犯した罪の結果だと考える。輪廻思想か。「それとも、両親ですか」。「親の因果が子に報い…」などと言って、先祖の因果・因縁がたたっているから、供養をしなければと脅したりする。

◇どちらにせよ「因果応報」を前提として障害の意味と責任を問う弟子たちに対して、主イエスの答えは驚くべきものだった。「3:本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。「なぜ、どうして、誰のせいだ?」と後ろ向きに原因や責任者を探すのでない。苦難には目的があると、前向きに考えよと言われるのだ。

◇「神の業」の英訳は「works of God」。「神の働き、仕事」の意味だ。神は私たちを、その苦難や障害、弱さや欠点なども含めて、神の「働きぶり」を現わす「素材」として用いられ神の「作品」とされる。

◇「6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」。

◇シロアムの池は、エルサレムの町はずれの低い所にある。泥を目に塗って、手探りしながらそこまで歩いていった盲人の、聞いて、信じて従う熱意が、彼に癒しをもたらした。

◇その後、主イエスを批判する人々はこの男を詰問する。だが彼はその論争を通して、初めて主イエスを信じる者となった。視力の回復だけでなく、彼の信仰的への回心まで含めて、そのすべてが「神の業」なのだ。 (大村 栄)