聖書箇所 ヘブライ人への手紙4:12~16
◇この個所の小見出しは、「偉大な大祭司イエス」。大祭司はモーセの兄弟アロン以来、代々受け継がれてきた。ヘブライ書5:1~4に大祭司の条件が三つ書かれている。そしてイエス・キリストこそが、その3つを満たすと、続く5:5~10で述べている。
◇4章に戻って「14:さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15:この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。
◇大祭司は神と人間の架け橋となってくれる。だから私たちの信仰は、修行や学びを深めることではなく、ただ私たちの大祭司キリストを信じ、あらゆる問題や課題の解決を主イエスに求めることである。
◇「基督が解決しておいてくれたのです/ただ彼の中へはいればいい/彼につれられてゆけばいい」(八木重吉「解決」)。すべての問題の解決は主にある。「16:だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。
◇「恵みの座」は大祭司キリストがおられる神の右の座のことだが、メソジスト教会では講壇を取り囲む柵のことを「恵みの座」と呼ぶ。聖餐式にはそこへ出て行き、ひざまずいて聖餐にあずかる。中野教会の講壇の両端に「恵みの座」の柵があった1960年頃の写真を見た。
◇「助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこう」という言葉は、自発的な意志と決意をもって聖餐にあずかること、その前提として洗礼を受けること、そのために教会の礼拝に行くことまでを含んでいる。
◇讃美歌315番「浮き世の荒波、のがれて安らう静けき港は、恵みのみ座なり」。399番「悩む者よ、とく立ちて、めぐみの座にきたれや。天の力にいやし得ぬ悲しみは地にあらじ」。聖餐の場である礼拝そのものが、私たちにとって「浮き世の荒波逃れて安らう静けき港」となるのだ。
◇聖餐のルーツは「最後の晩餐」だ。それは十字架につく主イエスとの別れであり、主イエスと永遠の絆を深める「固めの杯」を交わす時だった。この「恵みの座」の出来事を教会の宝とし、命として大切にしよう。 (大村 栄)