聖書箇所ーマタイによる福音書23:25~36 召天者記念礼拝
◇主イエスは「2:律法学者たちやファリサイ派の人々」を律法継承者として評価するが、「3:彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。彼らは律法を伝えながら、それを自身は実行しない。「4:彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」。言葉と行いがそれこそ「分離(ファリサイ)」していることを主イエスは批判したのだ。
◇「13:律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」。この言葉がこの後7回繰り返され、彼らの「不幸」の理由を語る。「25:杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。26:まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」。内側は見えないから気にせず、外側ばかり整える彼らを批判する。
◇「27:あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」。これも内外の問題。墓に触った者は汚れるから、夜でも分かるように白く塗って、間違って触らないようにした。墓は忌まわしい所とされている。しかし主イエスが十字架の死の後、墓に葬られ、3日目に復活したことによって、墓はむしろ天国への入り口、また門となった。
◇最初の任地、山梨の日下部教会では敷地内にある納骨堂を、ホセア書から取って「望みの門」と呼んだ。高尾にある中野教会の墓地には、16名の方々が納骨されている。この方々はここを通って天国に行かれたのだ。
◇墓は人生の最後の終着駅ではない。「冬について思わず 春について思う/夜について思わず 朝について思う/死について思わず 生について思う/墓について思わず 復活について思う」(内村鑑三)。
◇招詞に読まれたコリント二4:18「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。目に見える外面を整えることより、見えないけれど永遠に存続するものに目を向け、冬の先に春を見て、夜の先に朝を見て、そして死の先にキリストの復活による「新しいいのち」を仰ぎ見る希望を生きていきたい。
大村 栄