聖書箇所ーヨハネによる福音書12:20~26

◇ギリシア人が主イエスに会いに来て、弟子のフィリポに仲介を依頼する。フィリポも直接取り次がないで、「22:アンデレに話し、アンデレとフィリポは行ってイエスに話した」。キリストの福音は人を媒介として伝えられる。媒介なしには伝わらないし、媒介とならない人はいないのだ。

◇面会の申し入れを聞いた主イエスは、「23:人の子が栄光を受けるときが来た」と言われた。これを聞いた弟子たちは、「これは先生、ついに世界伝道に着手されるのだな」と期待したに違いない。

◇しかしそれに続く言葉は、予想に反するものだった。「24:一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。誰が聞いても自分が死ぬと言っている。生きていれば一粒のままだが、死ねば多くの人を生かす。弟子たちが考えた「23:栄光」のイメージとはほど遠い。

◇そしてそのような生き方を選ぶ者は誰でも、真の命に生きるのだと言われる。「25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。「自分の命を愛する」とは、ここでは、生の意味や目的を考えず、喜びや感謝がないこと。そのような人はすでに、自分の本当の命を見失っている。

◇「自分の命を憎む」とはそれを否定して死んでしまうことではない。「一粒の麦」である命を、握りしめていた手を開いて差し出し、捧げることによって、やがてそれが「多くの実を結ぶ」。主イエスに倣うそんな命を生きる人は「25:永遠の命」に達する。それは天国で長く続く命のことではない。「アバ、父よ」と神を呼ぶキリストのように、私たちも神を父と呼び、神もそれに応えて下さる。そういう平安な状況に生きる命のことである。

◇「26:わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる」。死の先に、キリストが「わたしのいるところ」とおっしゃる場所に私たちも「いることになる」。そしてそこでは父なる神が、私たちを「大切にしてくださる」。これは死後だけでなく、今ここで私たちを生かす希望の約束である。

                   大村  栄