聖書箇所  ヨハネによる福音書12:20~26 

◇この箇所の見出しは「ギリシア人、イエスに会いに来る」。ギリシアはソクラテス、プラトンを始め、多くの哲学者や文化人を生み出した。この訪問は、文化の香りを感じさせるような出来事だったに違いない。

◇面会申し入れを聞いた主イエスが、「23:人の子が栄光を受けるときが来た」と言うのを聞いて、弟子たちは「先生、ついに輝かしい世界伝道に着手されるのだな」と期待したろう。しかしそれに続く言葉は意外だった。「24:はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。

◇誰が聞いても、この人は自分が死ぬと言っていると分かる。生きていれば一粒のままだが、死ぬことによって多くの人を生かすものとなる。主イエスご自身が十字架で死ぬことによって、多くの者たちが豊かな命を与えられて生かされることを意味している。

◇そして同じような道を選ぶ者は誰でも、永遠の命を生きると言われた。「25:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。「自分の命を愛する者」とは、生きることの意味や目的を考えず、ただ執着する人。「自分の命を憎む」とはそういうな命への執着から解放されることである。

◇英語のライフ(Life)を「生命」と訳すのは医学。「生活」と訳すと社会や福祉。これを「人生」と訳すところを教会に担って欲しい、とかつて阿部志朗先生が語られた。生命を守るだけでなく、生活や人生の一部を、他者のために捧げる生き方の尊さを宣べ伝えるのが教会の使命だ。

◇タラントンのたとえにあるように、神から与えられた命という賜物を、危険を冒してでも用いた人は高く評価され、失うことを恐れて隠しておいた人は裁かれる。この命すなわち「一粒の麦」を握りしめていた手を開いて、それを捧げることによってこれが豊かに用いられ、やがて「多くの実を結ぶ」のである。

◇主イエスに倣ってそのような命の使い方、つまり愛をもって「仕える」生き方、「捧げる」生き方をする人は、「25:永遠の命」に達することができる。主は私たちを、そのような豊かな命の道へと招いておられる。  (大村 栄)