聖書箇所 ヨハネによる福音書12:1~8

◇「ベタニア」はエルサレムの東3キロにある。そこにマルタとマリアの姉妹と弟のラザロが住む家があり、主イエスはしばしばそこでくつろいだ。

◇夕食の用意が出来た時、妹のマリアが唐突に、「3:純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」。

◇「ナルド」はヒマラヤ山脈に自生する植物の根から採る高級な香科。ギリシア、ローマ世界で珍重された。「一リトラ」は326グラム。マリアはそれをすべて主イエスの足に塗った。マルコ14:3では壺を「壊して」中の香油を全部イエスの「頭に注ぎかけた」とある。

◇イスカリオテのユダが言う。「5:なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。無意味なことをしたと言っている。マルコとマタイでも、人々が憤慨して「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」と叫んだ。そんな風にするぐらいなら「貧しい人々に施」せばよかったのにと言うのも理解できる。

◇私が神学校を出てすぐ、阿佐ヶ谷教会の伝道師になったのはちょうど40年前、30才になったばかりの年だった。当時3億5千万円という高額な予算で会堂建築が計画された。教会内の一部から、「そんな資金があったら、世の中の困窮にあえぐ人々のために用いるべきではないか」という意見が出て、私も少し共感したのを覚えている。

◇だが会堂を建てるのは、人間の利益や誇りのためではない。神への捧げ物として建てるのだ。金銭の用い方に関する、全く新しい価値観がここにある。「聖なる浪費こそ、創造性につながる」(パウル・ティリッヒ)。「効率よく」と言いつつ、ただ利益をあげることのみを考える「打算的」な姿勢は、神の御業の現れを阻むことになるだろう。

◇太宰治の短編小説『駆け込み訴え』。イスカリオテのユダが祭司長たちに主イエスを引き渡すかわりに金を渡される。彼は主イエスへの愛に見返りを求め、それを拒絶されて憎しみを抱いたのだ。「愛の打算」は悲劇を生む。ナルドの香油を捧げたマリアの行為は、主を愛して捧げる「愛の浪費」だった。そのような行為の上に、神の御業が現されるのだ。(大村 栄)