2023年11月26日 中野教会創立100周年記念にて
説 教 「前のものに全身を向け、目標を目指して走ろう」大村 栄
聖 書  フィリピの信徒への手紙3:12~21
招 詞  ローマ人への手紙11章33,36節(口語訳)
   「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。
  「中野教会60年誌」(1983年11月)の渡辺正牧師による序文より。

 日本メソヂスト教会年会は1923(大正12)年1月に、「東京郊外郊外伝道計画案」を策定した。そのプロジェクトの現場責任者として最初に派遣されたのは、メソジスト札幌教会の牧師だった白戸八郎(1882~1962年)である。早速豊かな田園の広がる郊外、伝道の拠点を求め、人を求めていたところ、東京東部で関東大震災が起こり、被災した多くの人々が中野方面に移住してきた。
 メソヂスト教会は被災した都市部の教会の再建に努力すると共に、行くべき教会を失った人々のためにも救援活動をした。白戸牧師は「復興伝道は郊外から」との信念により物心両面の救済を行った。それが「中野教会」誕生の原点であった。そしてそれが教会の基礎固めを速やかに出来た原因だったと言えよう。
 「復興伝道」と併せて、白戸八郎牧師は「青年伝道」に目を付けた。自らも留学帰りで新進気鋭の牧師は、青年への伝道こそ、震災後の日本の立て直しにも大切と考えたのではないか。当時打越20番地という、現在地から遠くないところにYMCAの「中野寮」があり、そこには現在の東京外語大、一橋大、東京医科歯科大などの学生が生活していた。白戸牧師は毎週金曜日の晩に訪問して、聖書の講話を続けた。そのような地道な伝道が、中野教会の基礎作りに寄与したことだろう。
 鐘ヶ江有道さんの父上で、後に外語大の学長になった鐘ヶ江信光さんと中野教会との出会いはそこにあったのではないかと推測する。
 創立2年目の1924(大正13)年には会堂建築を行った。経費はメソヂスト教会の支援と、信徒一同の献金と借財によった。同年5月11日に献堂式が行われ、メソヂスト教会関係の教職信徒が参列した。その式で祝辞を述べた日本メソヂスト教会の伝道局長、波多野伝四郎牧師は「神は愛なり」と揮毫した講卓を中野教会に寄贈した。それが今も礼拝堂に置かれている。

 その時の4本の鉄骨入りの円柱は、関東大震災の教訓を生かして強固に造られ、後に太平洋戦争の空襲による延焼を防ぐための建物疎開で、家屋は倒されたが、この柱だけは倒すこが出来ずに今に残った。つまりこの4本の柱は創立の翌年、99年前からここに立っているのだ。

 さらにその献堂の翌年、1925(大正14)年には、地域の要請に応えて幼稚園を開園した。白戸牧師が園長で、園児は25名。人口急増の時期で瞬く間に徳育幼稚園は発展した。「母の会」の講演会なども開いて伝道に貢献した。
 その年は教勢が大いに拡大し、統計によると陪餐会員数98名、教会学校の生徒は110名もいた。「共励会」と呼ばれる青年会は87名で、婦人会の78名よりも多い。若々しい教会だっただろう。 ところがその年、日本メソヂスト教会内に紛争が起こった。一部の若手牧師たちから、外国の宣教から独立し、教派間の対立を越えて、日本伝道のために一致せねばならないという主張が起こった。これはまだ財政的に海外ミッションの支援から独立しきない当時のキリスト教諸派にとって、苦々しい訴えだった。そしてこの問題提起の中心にいたのが、我らが白戸八郎牧師だったのだ。
 結局メソヂスト教会本部は白戸を青森に左遷するという形で、これを鎮圧しようとした。教会員は本部に左遷の処分を取り消しを求めたが、拒絶された。結局白戸牧師は処分される前に、自ら日本メソヂスト教会に辞表を提出し、東中野駅の南側に単立の「新生基督教会」(現在の日本基督教団新生教会)を設立。これに同調して転会していく信徒・役員も相当数いて、画期的で急速な発展を遂げたばかりの中野教会は、瞬く間に一転して崩壊の危機に陥ったのである。
 しかしその危機を乗り切って、何代かの牧師たちが交代で牧会伝道する内に、中野教会は盛り返していった。前述のように、中野教会の原点は白戸牧師以来の「復興伝道」であり「青年伝道」だった。その後もこの教会は多くの青年を信仰に導き、その内数人は献身して神学校に学び、牧師として各地に送り出されていった。そのような少なからぬ数の献身者を出してきたということは、中野教会に託された素晴らしいみ業のひとつだったと言えよう。
 「中野教会60年誌」に寺澤良悦兄が書いた「中野教会青年会の歩み」という文章がある。当時30歳代であった寺澤さんは、当時の中野教会青年会はとても活発で、よそから招いた講師などに「この教会には青年が多いね」と言われたと書いている。
 青年たちの多くが教会学校の教師でもあるため、聖書をよく勉強した。そしてそれをエネルギー源として、良く労働奉仕をした。「学びつつ、祈りつつ、働く」という、かつてYMCAなどから始まって、各教会の青年会で行われた「ワークキャンプ活動」だ。
 中野教会でも学生たちが休みを利用して、千葉県館山の「かにた婦人の村」や静岡県榛原の「やまばと学園」などで、土地整備や大工仕事などの勤労奉仕のほか、入所者との交流を行った。
 寺澤さんはその文章の最後に、今年度の教会標語であるフィリピ書3:13~14の言葉を引用しておられる。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14:神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。この賞与を得られる青年会でありたいと結んでいる。
 寺澤青年を捕らえたこの言葉は、「20:わたしたちの本国は天にあります」と言いうる私たちが皆、世代や様々な違いを超えて覚えたい言葉だ。

 中野教会創立100周年という時と場所に置かれている私たち。神に置かれたここで精一杯に与えられた使命を、与えられた賜物に応じて果たしていきたい。そうやってひたすら走って目指す目標は、「天にある本国だ」。ヘブライ書はそれを「天の故郷」(11:16)と言う。その懐かしい故郷に帰る日まで、「前のものに全身を向け、目標を目指して走ろう」ではないか。
 今日の礼拝の招詞に、渡辺正先生が「60年誌」の序文に引用されたローマ書11:36を文語訳で拝読したが、それを新共同訳で読んで終わりたい。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。