聖書箇所-マタイによる福音書25:31~46
◇来週から始まるアドベントは、最初のクリスマスを追体験すると共に、「再び来たり賜う主」を待ち望む時でもある。「31:人の子(再臨の主)は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」。そして「最後の審判」が行われる。バチカンにあるシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの絵画を思い出す。
◇「32:すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け」。羊と山羊は、日中は一緒に放牧されるが、夜になると山羊は寒さに弱いので小屋に入れ、羊は空気の新鮮な戸外に置かれた。
◇羊は弱くて謙遜、山羊は角があり闘争的で傲慢。その両者の「より分け」が、「最後の審判」で右(天国)と左(地獄)を分ける「裁き」を象徴する。その裁きの基準は「愛に生きたか、否か」だ。
◇右に置かれた人々は、意識的に愛の業を行った訳ではない。その証拠に彼らは、「37:主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と驚いている。キリストが求めるのは、毎日の出会いの中で、自分でも意識しないほどの小さな愛の奉仕を重ねることなのだ。
◇左の人々も、「44:主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。こちらにも自覚がない。彼らは悪いことをした訳ではない、ただ日常の愛の業を怠ったのだ。この世は「なした悪」を裁くが、聖書では「なさなかった善」が裁かれる。
◇トルストイの小説「靴屋のマルチン」。絶望の中にあるマルチンが、キリストの声を聞いた。「明日あなたの家に行くよ」。彼は朝から準備して待ったが、現れたのは彼の救済を求める貧しい人々ばかり。肝心のキリストは来ない。
◇だがその夜再び主のみ声が、「私は今日、あなたの所へ行ったよ」。そして彼がもてなした人々の顔が浮かぶ。その時に聞こえた、「40:わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。この小説の原題は「愛ある所に神あり」。私たちが愛の業を無意識に行うことを通して、神に出会うのだと教えている。
◇そして、主は自ら愛の教えを実践された。マタイでは次の26章以下で、主は十字架への道を歩み始める。私たちの罪に対する裁きを肩代わりするために。
大村 栄