聖書箇所 ヨハネによる福音書18:33~40

◇エルサレムに入城する主イエスを人々は棕梠の葉を道に敷き、「ホサナ」の歓声を挙げて歓迎した。この「棕櫚の主日」から始まり、「宮清めの月曜」「論争の火曜」「香油の水曜」、そして最期の晩餐の席で弟子の足を洗った「洗足木曜」。主はその晩、ユダの裏切りによって逮捕された。

◇そして大祭司カイアファのもとで鞭打たれた後、人々はイエスをローマ総督ピラトの元に連れて行く。そしてその総督による尋問が行われる。ピラトの最大の関心事は、イエスが「33:ユダヤ人の王なのか」という点。もしそうならば、ローマへの反乱分子の首謀者ということになるのだ。

◇イエスの答えは、「36:わたしの国は、この世には属していない」。主イエスの属する国は、権力闘争に明け暮れる地上の領土ではなく、神の支配に服する神聖なる神の国である。地上の国とは比較もできない。

◇しかしピラトは無理解で、「37:それでは、やはり王なのか」と問う。どんな国だか知らないが「わたしの国」と呼ぶ領域があるなら、お前はそこの代表者として、社会を混乱させた責任をとって処刑されるべきだ。それがローマ人の合理的な、そしてこの世の政治的・社会的な判断である。最近もしばしば政治家や役人の引責辞任などのニュースを聞く。

◇ピラトはイエスをそういう人間的政治的闘争の中で捉えようとするが、主イエスが遣わされたのは、この世に直接関わるためではない。この世に「真理」の道を示すために来られたのだ。「37:わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである」。

◇ピラトはかみ合わない対話に飽きたか、「38:真理とは何か」と言い捨ててその場を去る。真理なんてものはありはしない、あっても主観的な概念でしかないとピラトは思ったのだ。だが彼は自分の目前にいる方が「真理」そのものであることに気がつかなかった。ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である」。主イエスご自身が真理である。

◇ということは、真理とは概念ではなく人格的なものだ。私の中にいて、私と共にあり、私を清め、高め、深めて下さり、私を特別な力で包んで下さる方。それがピラトの目の前に立つ「真理」なるキリストであった。この方こそが私たちを、地上の罪や重荷から解放し、「永遠の命」にいたる道へと、導き伴って下さるのだ。